評者:石井 恭平(ヴェリタス英語科講師)
第一節:読み書き偏重、上等論
私は文京区本郷にあるヴェリタスという塾で英語を教える仕事をしている。授業スタイルそれ自体は、さして変わったところもない。誰にでもすぐに分かる明快な構造の授業設計ばかりをしている。まずは英文で書かれた難しい文章を用意し、毎週担当範囲を決めて参加者に、①訳出してもらい、②文法解説と、③内容解説までしてもらっている。①訳出→②文法検討→③内容検討というループを教室内に発生させ、全員で発表者に質問をしながら回しているのである。そして①→②→③のループを何度も何度も繰り返す。たまに脱線で与太話が生じたり、適宜、英語文法復習タイムを設けたりもしているが、基軸となるのはこのループだけである。そして、④英作文の課題を毎週、お題を決めて提出してもらっており、私がコメントを書き込んで返却していく時間もとっている。いま①②③④と書いてみて驚いたのだが、文字にすれば数行で済む、こういう授業である。これをいま、私たちは毎週やっている。余計な意匠を排したこういう授業は、やっていて気づいたのだが、意外に奥が深いらしい。というのも、私の授業には固定化された上下関係というものがない。上下関係を生じさせられるほど、子供たちから見て尊敬できるような点が私には皆無だからというのも理由の一つだろうが、それよりもむしろ、欠席者のぶんの担当範囲は私が引き受けて発表していたり、子どもたちに混ざって私が質問をすることも多いがために、私の役割は、多く見積もってもゲームマスター役、オーガナイザー役、ファシリテーター役でしかないからである。「授業をやる側と、それを聞いていて質問する側」という対立、より抽象化して言えば「能動と受動」という伝統的な二項対立も、ある仕方で現れたと思ったらやがて解体されていき、すぐにまた別の仕方で現れるのだから、あくまで動態的にしか存在しない。「こういう授業はエクリチュール(=書くこと、書かれたもの)の分析にあまりにも重心を置き過ぎてはいないか、すなわち「読み書き偏重、文法偏重」では時代に置いていかれるのではないか」という批判が寄せられるだろうから、それに応えたいと思っていた矢先、私はある本を手に取った。その本とは、行方昭夫著『英会話不要論』(文春新書、2014年)という本である。アマゾンで中古が「1円」で売られていたからというのもあるが、鮮烈なタイトルと著者名に惹かれたという方が、購入理由を述べるには適切だろう。というのも、良質な英語精読書をたくさん出してきたことでよく知られている行方昭夫氏に、私は北区中央図書館で英語の勉強をしていた時分、本当に救われてきたからである。私は、行方氏の本を無料で借りて、何冊も読んできたけれど、この本を読んだことはなかったので、この書評執筆を機に読んでみて、つくづく思い知った。行方氏の文章の魅力は、金儲け主義者の口八丁手八丁には決して惑わされず、エセ学説の痛いところを突く鋭い観察眼であり、それはつまり、魅力的な学説に飛びついてリアリティを見失ったりしないところである、と。つまり、浮華を去った、摯実な批評眼が、氏の文章の隅々にまで浸透していたのである。こうした分析力が、氏も自ら言う通り、長年の難しい英文読解の仕事の賜物であることは、私のような若輩者にも容易に伝わることである。しかも、氏の文章にはユーモアがあって、読みやすい。冷静な筆致なのに、時々クスクスと笑いながら読める文章というのは、いつまででも読んでいられる文章だと言えるだろう。
以下、本書評では、この本からの引用を紹介していきたい。行方氏は、先述した「読み書き偏重」につき、次のように述べている(以下、特に記載のない限り、引用は全てこの本からであること、紙幅の都合で改行を省略した箇所があること、強調のための太字は私によるものであることを、あらかじめ断っておく。また、前回の書評と同じく【隅付き括弧】の中は私が引用を要約したものである)。
引用1.【ネット時代には読み書きも役立つ】
「日本で「役に立つ英語」を教えるべきだ、というのは、話し、聞く能力を伸ばす教育を指しているのです。英語を読み、書く力がついたならば、それも「役立って」いる筈です。それどころか、インターネットや電子メールの時代では、海外とのやり取りには、むしろ「読み、書き」のほうが重要だといえるのです。」(20頁)
引用2.【文法偏重こそ近道である】
「文法と聞くだけで頭が痛くなる人もいますが、英語のように言語構造が日本語とまったく違う言語を使用する場合、英語非母国話者なら文法を知らずに、言葉を組み合わせて喋ることなど不可能です。」(26頁)
引用3.【ハンバーガーの注文は後回しでよい】
「昨今、文法、訳読軽視のため、英語学習者の一般の読み、書く力が低下してきました。たとえ英語でちょっとした挨拶やハンバーガーの注文ができるようになったとしても、その代償は余りにも大きいのではないでしょうか。」(28頁)
引用4.【書けないことを話せるわけがない】
「話したいことが頭にあって、それを口で言う場合、それを書けなければ話にならないという事実を確認します。日本人の場合、初歩段階では、英作文力の向上ほど、話すのに役立つものはありません。」(74頁)
引用5.【目減りするペラペラの価値】
「国際会議の議長として成功する秘訣は、お喋りなインド代表を黙らせ、沈黙しがちな日本代表を喋らせることだ、というジョークがあるのを話すこともあります。」(76頁)
引用6.【読解が一番実用的である可能性まである】
「英語を読み、書き、聞き、話すという四つの能力の中で、ここでは「読み」の力の低下を見てきました。これが「話す・聞く」能力重視に英語教育の方針が傾いた結果なのかどうか、即断できませんが、残念なことです。というのも、一般の日本人がもっとも多く活用するのは、実は、この能力だからです。他の三つの能力を使う機会は、生涯で何度あるでしょうか?「書く」ことはあまりないでしょう。「話す・聞く」は、日本在住の外国人に接したり、海外に旅行した先で買い物したりする時くらいでしょうか。一生でせいぜい数回ではありませんか。一方、読む機会なら、広告であれ、缶詰などの説明であれ、頻繁にあります。」(95頁)
ここまで読んで、著者の舌鋒鋭さに驚く方もいるだろう。しかし、要点は伝わったはずである。要するに、読み書きにやたらこだわること、文法を気にし過ぎることは、実際には正しいアプローチだと言いたいのである。詳しいデータを引用していく紙幅はないから、もっと多数のファクトが欲しい読者は、ぜひこの本を手に取っていただきたい。しかし、常識を働かせてみても同じ結論に至れるだろう。もちろん、英語を喋れて損はないが、「引用2」と「引用3」と「引用4」からもお分かりの通り、英文法を駆使せずに話せることなどたかがしれており、定型句や挨拶ではなく中身のある主張を論理立ててしようと思ったら文法が必要になる。そして「引用5」が冗句として機能するとしたら、英語を流麗高速で喋れることが評価されるのは、日本国内でであって、国外でではないのかもしれない。もしも「ペラペラが役に立つ」というのが「ペラペラだと日本国内において英語の達人感を出すのに役に立つ」ということを指しているのだとしたら、外国語学習というものは本来そのような自閉した動機で起こったのではないということを思い出す必要があるだろう。私の家の近所には「プチメゾン」という建物があるのだが、このような「フランス語のように見える何か」を私の大学時代の友人だったフランス人は、写真を撮って集めていた。文法を無視してやたら外国語で話そうとしがちである傾向が私にもあるかもしれないので、気をつけたいと思わされた。
「引用1」と「引用6」が主張しているのは読解能力が意外にも多くの人にとって有用だということである。この件については「想像力」という重要な概念との関係で、節を改め、もう少し詳しく見ていこう。
第二節:読解訓練と想像力について
実は、読解し訳出する訓練は、日常生活の中で有用であるにとどまらず、人間が何か未知のものを理解するときに働かせている力、つまりは「想像力」を鍛えるというより広汎な意味での有用性へと通じているのである。ここでも、著者の言葉を引用してみよう。
引用7.【理解度は訳出させて初めて検出、評価、改善の対象となり得る】
「大学の入試で、英文和訳そのものが出題されなくなってきた理由には、もう一つの事情があります。他の章でも触れましたが、訳読という作業が嫌われ、時に「訳毒」などと称されているのです。英語教員の中にも、英文はそのまま訳さずに理解すればいいのであって、訳読など必要ない、と主張する人がいます。[…]訳すのを避けていた後輩の英語教員から、「理解度が怪しいので、今日は念の為に訳させてみたら、ほとんど分かっていなかった」という告白を、これまで何度も聞いたことがあります。理解度を確かめるためには、間に合わせのための、やっと通じるだけの日本語で構いませんから、とにかく日本語で言わせるのが、一番効率がいいのです。明治初期に英米人の教授からあらゆる科目を英語で教えられた新渡戸稲造などの英語名人たちが、放課後、念の為に教わったことを日本語で確認しあったというのは、賢かったのです。」(86-87頁)
引用8.【実用的でないという批判はむしろ批判者の想像力のなさを暴露している】
「Are you a boy or a girl? 「この疑問文が実際に使われる状況を想像してふさわしい日本語に訳せ」という問題です。これは、昔の中学一年用の教科書にあった文で、「愚かな質問だ。実際にはありえない」として非難されました。こういう質問を学生にしても、なかなか想像できないようです。そこで、私から、ロンドンに住むトムが田舎の祖父を、久しぶりに訪問したとしたらどうかな、とヒントを出します。」(88頁)
引用9.【「このコーヒー、さすがに薄すぎるやろ」】
「Is this tea or coffee? これも上の文と類似の疑問文です。「状況を想像し状況にふさわしい日本語を考えよ」と学生に言います。この場合も、例えば「薄いコーヒーであるのに不満なので、文句を言っている」と答えてくれる学生は少ないのです。柔軟な思考力、豊かな想像力が欠如しているようです。英文読解には、そんなもの使わないでいいと勘違いしているのでしょう。」(89頁)
引用10.【英文読解は慣習の想像を含むため想像力の涵養に役立つ】
「Mary struck John on the head. He had given a violent kick to her dog. これは前後関係を知らなくても理解できますから、すぐこれに相当する日本語文を書かせます。「メアリーがジョンの頭を殴った。彼は彼女の犬を乱暴に蹴飛ばした」。これで正しいでしょうか。had givenと過去完了形になっているのを無視したことから生じた誤りです。基本的な文法を知らない学生が増えています。正しい訳文は、例えば「メアリーがジョンの頭を殴った。彼女の犬を乱暴に蹴飛ばした彼に仕返ししたのだ」です。説明しましょう。過去完了は過去より以前のことをいうのですから、まずジョンがメアリーの犬を蹴飛ばした行為があり、その後に、彼女が復讐したのです。もう一点、学生が見逃しているのは、英語表現の慣習です。つまり、英語では何か意外な、驚くべき、予想外の発言をしたら、その説明をする義務があるのです。驚かせて放置するのは礼儀違反です。これは確立した習慣ですから、説明の冒頭に「というのは」という意味の接続詞forなどを付けないのが普通です。」(90頁)
上記の引用をあえて評者の私なりに整理し再構成してみよう。「引用7」で言われていることが重要である。実は、「和訳できなくても理解できていれば十分だ」と言いたくなるけれども、実際には多くの場合、和訳を通して初めて人は他の人にも伝えられる水準での理解を得ているし、それを他人が検証したり改善したりするのも和訳の微調整を通してなのである。明確な理解とは母語を使った理解であり、そのためには非母語と母語とを比べなければならず、そのためには非母語に対する想像力を働かせなければならない。「引用8」も「引用9」も「引用10」もそのことを言っており、読解し訳出する力とは、想像力の涵養を、論理上含まざるをえないのである。異文化理解がますます重要になる昨今、結局は「他者の靴を履いてみること(put oneself in someone’s shoes)」つまりは「他人の立場に立って考えてみること」が求められており、そのための練習場として読解訳出は適しているのである。さて、次節では、話題を変えて、この本から読み取れる英会話偏重主義の悲惨な帰結を見ていきたい。この本のタイトルが『英会話不要論』となっているのは、英会話をあまりにも(養育者が)重視した結果生じた実例を著者がたくさん目撃して、心を痛めたからであろう。この本を語る上で避けては通れない不気味な話題に、我々も赴くとしよう。
第三節:ペラペラ偏重の蹉跌
まず、「そもそも二つの言語を、抽象度の高低にかかわらず、母語レベルの練度で自由自在に使いこなし切り替える超人」というのがいるのかどうかを考えてみよう。著者の行方氏はこの問いに明確に「NO」と答えているように私には思われる。その根拠となる箇所を引用したい。
引用11.【バイリンガルも軸足をどちらかに置かざるを得ない】
「父親がイギリス人で母親が日本人の場合、子供はバイリンガルになるだろうと思う人がいますが、大まかな意味でならともかく、厳密な意味でのバイリンガルというのであれば、それは極めて難しいのです。特殊な条件でもない限り、どちらかが母語になり、もう一方は、いくら巧みに使えるとしても、外国語になるのが普通です。」(15頁)
引用12.【津田梅子ですら二言語の同時的熟達は難しかった】
「ここで、津田塾大学の創設者として知られる津田梅子の場合を考えてみましょう。彼女が一八七一年、岩倉使節団とともに渡米したのは、満六歳のときで、すぐに愛情深いアメリカ人夫妻に引き取られ、現地の小学校に通いました。英語はまったく知らなかったのですが、じきに覚えたようです。適応性、積極性に富む利発な少女だったのでしょう。英語だけに囲まれた環境ですから、まさに「アメリカの赤ちゃんが覚える」のに近い状況で、話せるようになったのでしょう。現地の小学校、女学校をよい成績で卒業し、十七歳で日本に帰り英語を教える仕事に従事し、数年後に再度渡米し、一流女子大のブリンマー・カレッジを卒業。日本に戻り、津田塾創設など女子教育に多大の貢献をしました。ところで、彼女にとって大きな問題は日本語でした。長い間使用しなかったので、帰国後は母親とのコミュニケーションのために、通訳を介さねばなりませんでした。本人は六歳の時知っていた日本語を思い出しながら、話せるようにとずいぶん努力したのですが、ついに果たせなかったようです。残された書簡はほとんどすべて英語で書かれています。」(16-17頁)
引用13.【完全なるバイリンガルなど存在しない】
「友人の教え子で国立大の英文科を最優秀で卒業した女性の話を聞きました。人も羨むような国際結婚をして、今はアメリカで夫と男女二人の大学生の子供と暮らしています。昨年一時帰国して、友人に会った時、家庭で孤独な瞬間があるとこぼしたそうです。夫と子供が夢中になって話し出すと、彼女はついて行けなくなるそうです。1番困るのは、英語が聞き取れなくなることだそうです。二◯年近くアメリカ人の夫と暮らしてきた人が、未だにリスニングが完璧でないというのには、驚きませんか?[…]正真正銘のバイリンガルなど、なかなか存在しないというのが、この女性の例でも分かりますね。」(17-18頁)
私は大学時代にフランスへと交換留学をしていたことがあるのだが、いまフランス人と話すのは、とてもゆっくりとしかできない。そのことが悔しいので、妻とフランス語が使える駒込のバーに行こうとずっと前から決意している。決意しているのだが、妻のほうが先にバーに行ってしまった。私は未だに足踏みしている。そもそもバーで話せるような小洒落た話題が私にはないし、バーで話すようなスピードについて行こうとすると疲れてしまうだろう。私はあのバーに、行けない。要するに、私も日本語に軸足を置かざるをえないのである。
では、こんな口下手な私でも、幼少期から外国語にどっぷりと浸かっていれば、ペラペラになれたのだろうか。この本を読む限り、なれたのかもしれない。しかし、そのことがどのような帰結を生んでいるのかを注視してみるのが、本節の主眼であった。以下の記述を引用してみたい。
引用14.【母語の第二段階に到達する機会を放棄してまで外国語の第一段階に到達したいのか】
「この問題について参考になる良書があるので、勧めました。市川力氏の『英語を子どもに教えるな』(中公新書ラクレ、二〇〇四年)です。著者はシカゴの塾で十数年にわたり国語を教え、海外駐在員の子どもの相談相手を務めた方です。教え子は一〇〇〇人にも及ぶそうです。帰国子女の英語学習について、これほど、豊富な実例を上げて、問題点を的確に論じた本はないので、そこに上げられた実例をいくつか紹介させて頂きます。市川氏は、本の題名からお分かりのように、帰国子女の英語学習に否定的です。海外派遣が決まった両親が、この機会に子供が英語がペラペラになるだろうと、過度の期待を寄せた結果、子供が日本語も英語もいい加減な、気の毒な人間になった実例を余りにも多く見たからです。「英語環境の中にどっぷりつかることで、ネイティブ並みの発音で日常会話はできるようになっても、なかなか十分な読み書き能力は身につかない、母語である日本語の力を育てるのが難しい、母語喪失のリスクを負ってまで獲得した英会話の力も日本に帰国して使う機会がなければみるみるうちに失われていく、といった事例に数多く接してきた」と「はじめに」にあります。そもそも、日本語でも英語でも、子供は成長過程で、まず簡単な日常会話ができる「第一段階」を経て、次に、学校で理解、社会、数学、国語などの教科を理解できる「第二段階」へと進んで行きます。市川氏に依りますと、小学一年生から中学一年生くらいまでの日本の子供、つまり日本語で「第一段階」に達した子供は、英米で暮らして英語に囲まれていると比較的早く、英語でも「第一段階」に達します。しかし、日本語の「第二段階」に達するための努力を怠っていると、いくら現地で暮らし、友達と自由に喋っていても、英語の「第二段階」に達しないのです。」(31-32頁)
引用15.【娘を拒食症にしてまで娘を英語ペラペラにしたいのか】
「C子さんが市川氏の塾に入った時、現地校の中学二年生でした。生真面目な性質で、完璧主義だったので、学校での作業や宿題をきちんとこなせない自分を許せず、結果として不登校気味になりました。彼女は英語の「第一段階」には達しても「第二段階」にはかろうじて届いたというだけだったのです。[…]とうとう拒食症になりました。相談した医師は、日本人学校への転校、あるいは日本への即時帰国を強く勧めました。ところが両親はその勧めを無視して、現地校に通わせ続けました。というのは、日本の帰国子女枠で高校入試を有利に受けさせるためには、あと半年現地校に在籍する必要があったからでした。帰国子女枠というのは、受験勉強が充分出来なかった帰国子女も、英語力など一般の受験生にない長所があるので、通常の入試とは違う、学科の面ではより易しい問題を課す特別の枠のことです。数年前から日本の中学、高校、大学で設けられている制度です。高校入試の場合、現地校での在籍が二年以上であることが条件になっています。さて、C子さんは、病気が治癒せぬまま、現地校に留まり、帰国後、この枠を用いて、志望の高校に合格できました。しかし、不幸なことに、拒食症はついぞ治りませんでした。」(35-36頁)
引用16.【小学校で英語教育をしてもしなくてもどうせ第二段階には進めない】
「「あの子は帰国子女だから英語に強い」と言われるように、「あの子は小学校で英語をやっていたから英語に強い」という話を聞いたことはないでしょう?事実、そういう子は滅多にいないからです。中学で初めて英語を学び出した大多数の子供より、優位を保てる期間はせいぜい半年で、後は同じになります。どうして文科省は、こういう調査結果を考慮しないのか不思議です。」(47頁)
引用17.【徹底して損得で考えるなら小学校で英語を教えないほうがよい】
「結論として、どう考えても、小学校への英語導入の損得勘定はマイナスではないかと恐れます。膨大な予算の使い方についても、税を負担する国民としては文科省に強く再考を促したいものです。」(49頁)
「引用14」と「引用15」を読んで私は驚いた。そんな事例が多数あるのかと驚いた。養育者が過度のプレッシャーを与え、子の自然な成長順序を歪めてしまう場合があるのだ。子の方は、やりたくもないことをやらされ、「社会は、制度は、こうなっているんだから、これで良いんだ、諦めろ」という言説に晒される。神経衰弱になっても不思議ではない。結局のところ、英語に「どっぷり浸かる」のではなく、まずは日本語を勉強し、日本語を用いて、英語を文法的に分析するという順序の方がよほど着実そうであるという、穏当な結論が出てくるのであった。では、やや唐突だが、力士はどうなのか。力士は文法なしで日本語を理解しているのではないか。行方氏はこの疑問にさえ答えようとしている。引用しておこう。
引用18.【力士が文法学習なしで日本語を話せるのは日本語文法学習よりも壮絶な努力をしているから】
「力士は親方のもとで、同門の力士たちと朝から晩まで、常に一緒に行動します。入門当初は、個室などあるかどうか。相撲の世界では、プライバシイという考えはありません。故郷には、家族、時に親類まで、彼からの仕送りを待っています。日本での生活が耐えきれずに、帰国することは、事実上、不可能です。相撲技術の獲得には、親方や先輩、仲間との間で日本語を使わねばなりません。言うまでもなく、相撲の厳しい訓練、私生活のなさ、日本語の難しさ、などに負けて、挫折する力士もいます。肉体的な強靭さに加えて、精神力、忍耐力、家族愛など、あらゆる面で優れていて、初めて、僅かな歳月で役に立つ日本語話者になれるのです。外国語である日本語を上手に喋っているところだけ見て、羨ましがっても無意味です。生活の全て、我慢強さ、などを真似られぬ限り、力士が「文法など知らなくても結構喋っている。自分もあのようにして英会話を身に付けたい」と望む人が仮にいたら、相撲の激しい朝稽古を見学させてもらうのがよいでしょう。」(140-141頁)
第四節:書評の終わりに
本稿では、行方昭夫著『英会話不要論』に沿って、「読み書き偏重」の有用性と、やたらペラペラになろうとすることや、誰かをペラペラにしようとすることの問題点について検討してきた。どうやらこうした問題関心は著者ひとりのものではなく、英語教育研究者のあいだで共有されはじめているようだ。以下の引用を最後に提示したい。
引用19.【対ペラペラ戦線】
「教え子で、東大での同僚でもあった、斎藤兆史氏の『英語達人列伝』『日本人と英語』などいくつもの著書からも、大きな刺激を受けました。以前、同君から、ペラペラ喋ることのみ大事にする英語教育への批判で、「共闘しましょう」という誘いを受けたことがあります。最初は冗談半分に取っていましたが、本気でそうしなければ、という気持になりました。」(183頁)
引用20.【文法を軽視する風潮への警戒】
「世間一般の方々が英語学習に関心が深いのは結構ですが、あまりにも多くの勘違い、誤解があります。なんの悪気もなく堂々と「文法なんかやっているから喋れるようにならないのでしょ」と発言する、ごく普通の親御さんが大勢います。これらを是正したいという気持が自分の中で次第に高まって行きました。」(184頁)
いま、これを書いているのは日曜である。私は来週も、この書評の冒頭に書いたような授業を実践していくのだろう。そのとき、読み書き、文法を学ぶことの意味、魅力を同時に伝えていきたい。私は、そもそも、あなたにペラペラだと思われたいのではなく、あなたの言っていることをきちんと理解したいのではなかったか。日本語だろうと、英語だろうと、フランス語だろうと、そのことだけは動かない。この本は、この一番重要な一点を、私に想い出させてくれる本であった。
石井 恭平