発端は先日、英語科講師の数人で連れ立って、いたばし花火大会に出かけた時のことである。俳句歴七年目の俳人の端くれである私は、「花火」と聞けば即俳句モードに入る(花火は夏の季語である)。当初、私は自分だけこっそり作って満足するつもりだったのだが、周りの講師に俳句を作ることを伝えると、瞬く間に皆で俳句を作る話になったのである。私以外は皆全くの素人ということで、皆が二、三句作ってみて、私がそれらの句を添削する、某番組のような会になった。そしてこれがまさかの好評。この戯れに味を占めた我々は第二回を開催すべく、講師室にかき氷機を持ち込んだ――
そして本日のかき氷俳句大会である。俳句を詠むならばかき氷が食べられる、というアグレッシブなレギュレーションにも拘らず、講師・生徒の垣根をまたいで前回以上の参加者が訪れた。ある英語講師などは花火の時の反省を活かすべく、俳句の入門書まで購入して武装してきたのには全く驚いた。かかる努力の成果もあり、私を含め皆悪戦苦闘しつつも、結果的には前回の倍近い句が発表され、実りのある会になった。その格闘の一方で、かき氷だけ食い逃げする不埒な大人が居たのも事実だが。

私はしばしば、VERITASというコミュニティに属する人間の「異文化」に対する受容力と貪欲さに驚かされる。ここでの「異文化」とは、各個人がそれまでの人生で触れることのなかった分野のことだ。言い換えれば「不案内な領域」であろうか。学校の勉強内容や受験対策としての勉強内容も「異文化」に含まれるといってよい。VERITASの人間はこの「異文化」に対する悪い意味での抵抗が殆どないように思えるのだ。普通なら私が人に俳句を作ることを伝えても、概ね興味を示されないうちに話題が変わる。花火大会を前に「じゃあ試しに一句作ってみるか」と、得体のしれない詩の世界に挑戦してみるなどあり得ないというのが、長年俳句布教の難航に悩んできた私の所感だ。本来であればかき氷だけ食い逃げするのが当たり前であり、あろうことか自発的に俳句を勉強してくる方が酔狂なのだ。「異文化」との間には程度の差こそあれ、それなりに高い壁があるのである。しかし、VERITASにはそんな壁はない。「異文化」に接する態度が恐ろしくポジティブで、かつ誠実である。これはきっと、年をとるにつれて薄れていきがちな、純粋で原初的な知的好奇心を保ち続けているからであろう。この姿勢を一言で表すなら「童心」ではないか。童心を存しているか否かで、日々の心の豊かさは大きく変わる。知的な喜びの根源であると同時に、経年劣化に弱いその姿勢を、VERITASは忘れていない。(英語科 佐々木)