ヴェリタス英語・国語科では、それぞれの教科を別個に扱うのではなく、言語を扱う教科同士として、双方の手法をお互いにとりいれていきます。それによって、二つの教科の理解を相乗効果的に深めることを目指します。
国語は、「日本語」の学習に他なりません。ただし、私たちは、物心の付く前から、日本語を無意識のうちに習得しているため、語学的な問い方がなされません。しかし、語学である以上、皆さんにとっての語学すなわち英語の習得の手法を意識して用いると、効果的なことが多いのです。
英語においても、英作・和訳というのは日本語と英語の相互変換ですから、正しい日本語を身につけるということは、英語学習において大きな効果をもたらします。また、英語のままで理解するべき、長文であっても、「文章」というものを扱っている以上、現代文の手法は必ず、その内容を論理的に把握していくのに役立ちます。国語力を高めれば、英語の試験においてより高得点が狙えます。
1. [英語→国語]
英語における、文構造把握の手法は、日本語の言語能力の上昇につながる
日本語には主語や目的語を明示しないという特色があり、感覚的に分かる文章の場合はそれでも良いのですが、高度な内容の文章になるとそれがために理解を不鮮明なものにしているということがよくあります。SVOCを強く意識し、語だけでなく、句、節がSVOC機能を担う、英語の構造把握法は、日本語を読むときでも、隠された主語や目的語は何かなどを無意識のうちに追うことを可能にし、より精密な理解を導くことにつながります。英語科では、1,2月の二ヶ月間で文構造把握を徹底完成させます。
2. [国語→英語]
英語を日本語に直さず英語のまま理解するための第一ステップは、英語の語順のまま日本語にし、その日本語を理解する力に他ならない
例えば、「Many of our dreams do not fit the person we are sure we are during daytime.」という文章は、「我々の見る夢の多くは昼間我々が自分の姿だと確信している人物像とは合わない。」という訳ですが、英語をそのまま理解しようとする人にとっては、「たくさんのもの、我々が見る夢のたくさんね、それはフィットしない、何にフィットしないかというと、人にフィットしない、じゃあその人ってのはどんな人かと言えば、我々が確信している、何を確信しているのかと言うと、われわれつまり我々自身が日中に自分はこういう人であると確信している、その自分というものとフィットしない」こういう順番に理解せねばならないのです。あまりわかりやすい日本語にはなりえませんが、このわかりにくい日本語を理解できる力が、英語を英語のまま理解することの入り口になるのです。
3. [英語→国語]
輸入概念を英語のまま理解する
―「identity」=「自己同一性」で理解できますか?―
現在の日本語には、英米圏からの輸入概念が氾濫し、その意味を理解していなければ、文章が読めないことも多々あります。ところが、言葉とはその国の歴史や習慣を背負ったものなので、日本語に置き換えれば理解できるというものではありません。輸入概念は英語のまま把握するのが、理解への近道です。英語科で行う、単語分解の手法が、その語がもつ歴史を含めた深い理解につなげます。
4. [国語→英語] 日本語の表現能力は英作文に必要不可欠
英作文において重要となるのは「与えられた日本語」から「自分が英語になおせる日本語」へ変換できる力です。この日本語内での操作を行うに十分な日本語の能力を身につけることが、英語力アップの手助けをします。
5. [国語,英語,数学] 論理力は全科目共通
「AならばB」「因果関係」「同値」「包含」「具象と抽象」「帰納と演繹」「事実と概念」「前提と証明と結果」といった論理をつかさどる事項は、それぞれの科目の中で、一見異なってみえますが、全くの共通の事項をあつかっています。
論理に関し、「読む際に、把握せねばならぬこと」「書く際に、気を使わねばならぬこと」をそれぞれの科目の中で丁寧に扱うことが、他の科目に置いても絶大な効果を発揮し、かつ、より深い理解にいたることが可能です。受験科ではどの科目も上記2点を非常に丁寧に扱います。
テキスト例: 1つのトピックを日本語・英語の双方から読んでみる。(同じ文章ではありません)
人としてあたりまえの姿である病・老・死のプロセスを、「正常な社会」の外に排除しておく一方で、私達のほとんどは「患者扱い」されて生きている。かつては、多くの人が病・老・死のプロセスを、「人の自然で正常な在り方」として辿りはしたが、「患者」として医療の対象とされることは、滅多になかった。今、私達の社会で、患者にされたことのない人は、まずいないといってよいだろう。患者とされることは、「正常な社会」の外に排除される方向に歩みだすことである。とすると私達は、自分達全てを排除していくような社会に生きているのだろうか。(石田秀実『死のレッスン』)
Most of us would rather not talk about or even think about death in general and our own in particular. (中略)For me it turned out to be one of the most exciting sections in this book because, as we will see, it is not about death -it is about life. As emotionally wrenching as it may be, the loss of someone whom we love - and ultimately the acceptance of our own death -can give us a new beginning.(Bertrand Russell “The Conquest of Happiness”)