去る4月4日、「東大国語問題検討会」を実施しました。
今回取り上げたのは、今年2月に実施された、2026年度東京大学前期試験の評論問題。講師陣がそれぞれ、事前に作成した解答を持ち寄り、他予備校の解答なども比較しながら、問題の検討を行いました。
今回の検討会には、国語科講師のほか、数学科・英語科の講師も参戦。「何を書くことが求められているのか」 「どんな言葉が最善な表現なのか」をめぐり、ときにはたった一語の選択を巡って、火花を散らす場面も。文系・理系の垣根を越えた視点がぶつかり合い、議論は白熱し、国語や受験という枠に留まらない、多角的な分析が繰り広げられ、非常に濃密な時間となりました(会場の教室は、見学する生徒であっという間にいっぱいになりました)。

東大国語の解答欄は、わずか2行。およそ60字という限定的な枠内で、解答を過不足なくまとめることが求められています。解答に盛り込むべき要素を詰め込もうとすると、スペースは絶対的に足りません。自分の解答が本当に採点官=〈他者〉に伝わるのか。必然的に、言葉を削り、編集し、何度も推敲しなおす、という、痛みを伴った作業を、繰り返し強いられることになります。
しかし思うに、東大国語が他大学のそれと一線を画しているのは、「文章を理解しているか」という次元にとどまらず、咀嚼した論理を端的な言葉で〈他者〉に伝え直す、すなわち「美しく精緻に表現すること」を厳格に求めているという点です。大学院で研究を続けていると(筆者は普段日本近代文学の研究をしています)、それはむしろ、大学で「論文を書く」という営みに近い作業であると感じます。解答に、自分の体重を、実存を、言葉の履歴を託し、絶対的な〈他者〉に届けるということ。いわゆる受験勉強——暗記や記述演習だけを、闇雲に重ねていても、解答に〈他者〉を想定した視点が欠けていれば、どうやら、大学の求める水準には届かないのでしょう。
参考書とにらめっこしながら粛々と1人で学習するよりも、自分で表現したものを、他者のそれと(嫌々ながらも)すり合わせてみること。他人の選んだ言葉と、自分のそれが違うという、当たり前ながらも残酷な断絶を自覚した上で、それでもなお互いを尊重し、影響を受け、自分の言葉を、そして言葉によって見える世界を、更新し続けていくこと——東京大学が国語という入試科目を通して真に問うているのは、こうした、学問の基盤たる「〈他者〉と対峙する態度」そのものなのではないか?——あまりにも大胆すぎる見立てかもしれませんが、講師たちが魂を賭けて言葉を戦わせるあの白熱した時間の渦中に自ら身をおいて、そんなことを確信し、発見したのでした。
(文責:国語科 橋本)